『雲鳥』
 (抄)

作者名  太田水穂 (1876-1955)
作品名  『雲鳥(うんちょう)(抄)
制作年代   1915-1920
収載書名  『太田水穂全集』第1巻 
刊行年代   1957
 その他  作者は、長野県東筑摩郡広岡村(現塩尻市内)の出身。初め長野県内で教師として勤めつつ、創作に励んだ。明治41年4月(1908、33歳)上京。同43年(1910、35歳)10月から大正8年(1919、44歳)6月まで、足掛け10年を、小石川區三軒町二番地に住んだ。そこは、今日の文京区小日向4丁目1番地9号、地下鉄茗荷谷駅から少し東に歩いた、春日通り沿いの土地である。
 『雲鳥』は、作者の第3歌集。ここでは、茗荷谷・小石川・大塚・雑司ヶ谷あたりを詠ったと思われる作品を、抄出する。
 テキストは、第二次世界大戦後の全集によった。ただし、漢字の字体、振り仮名など、太田水穂自身に由来するものかどうか、心もとない。しかし、ここでは製作年代に限って括弧を附して注記し、残余は全て全集本に従った。

 大正五年(1916、41歳)

  春の光

この空のうらゝかに照る日の下にみだれて花の咲きほころびぬ
うすうすとけむりこめゆく夕端山
(ゆふはやま)ゆふやまざくら咲きにけるかも
庭畠の花山吹の一藪
(ひとやぶ)にちりこぼれたる櫻なりけり
あけがたのやゝうるほへる山畠にまばらに散れるさくら花かも
裏岡の穂麥の莖のゆさゆさに風ふく見れば春すぎぬらし
わきて身に老い衰へを思はせて咲くとにあらね花はさびしき
留守居して獨りわがゐる障子戸に丁子の花のにほひ來るなり
家人らみな外にゆきてひとりなり障子を明けて庭の木を見る

  夏のこゝろ

この街の店の暖簾
(のれん)の水色になびきてはやも夏となりけり
いぶせくも幾日か雨に桐の葉の下闇くらき窓をいとへり 
(梅雨三首)
木下闇くらき窓べにこもりつゝ物思ひ瘠する梅雨となりけり
我が家の門の電燈霧
(き)り明かり青葉に雨のいくよさかふる
雨霽れて庭の木立に夕げむりゆきなびくこそあはれなりけれ

  材木店隣居

今年また木屋の木小屋の屋根のうへに遠稲妻を見る夜となれり
わが家は軒端にちかくひともとの栂
(つが)の木ありて夜すがらの風
ひともとの栂の繁みに吹きこもる夜風の聲のさびしきわが家
栂の木の細葉ことごとく夕立の露こきたれてこぼれざりけり
いくとせか木屋をとなりに住みわびしこゝろよなほも耐へんとするか


 大正六年(1917、42歳)

  三軒町小居

小石川この古家に七年のことなき春にまたあひにけり
連翹
(れんげう)の花のたわみをとびこえて啼くうぐひすの時にちかづく
風いく日乾反
(ひぞ)りて荒れし庭土にほゝけて咲けり福寿草の花
藤寺
(ふぢでら)のみ坂をゆけば清水谷(しみづだに)清水ながれて蕗の薹(たう)もゆ
髪床の花瓶にさせる毛野山の赤城つゝじを見る時となる

  郊外にて

うらうらとかすむ岡邊をゆきのびて檜原
(ひはら)に消ゆるひとすぢの道
うらうらとかすむ岡邊のくぬぎばら松もおぼろにゆるゝ陽炎
(かげろふ)
この朝け一村こめて立つけむり檜原にうすくたなびきにけり
豊島野の小野の榛原
(はりはら)かすめども北のみ山は雪か降りをり
このあしたかつがつ芽ぐむ裏岡の若芽の木原うぐひすの鳴く

  櫻花頌詠

大空は海の色なす深みどりかすかに花のうごきたるらし
大空のふかきみどりを衣笠
(きぬがさ)にさきたわみたり一山ざくら
きりぎしの崖にのぞみてひともとのさくら眞白くさきしだれたり
待ち待ちてやうやく花に會ひえたるけさのこゝろはうれしきものを

  夕花

すみぞめの夕べこめゆく茗荷谷
(めうがだに)花しらじらと暮れのこりたり
谷合
(たにあひ)の街の家庭(やには)にうすがすみ夕居(ゆふゐ)静けく咲きたるさくら
谷岨の木立をこむる夕がすみ夕花ざくら咲きみだれたり
となりには早ちりいそぐほどならん我が庭にまふ花しきりなり
ふくとなき風にちりゆく花見れば我が世すなほに生きんと思ふ
飛鳥山花見てかへるをとめらか道のみ坂をゆきなづみたり

  病臥
 五月一日重き病を獲て、蓐に悩むこと四十日、やゝ癒えて戸を開けば、早や梅雨の時なり。
病みいねていく日かふれば世のことも遠しと思ふ思ひいづるに
戸を明けてひさびさに見る日の光り衰へしるきわが眼なるかも
もの思ふすべだにもなく衰へていぬるこゝろのすなほなるかも
ひさびさに戸を明けて見つ戸の外の若葉のうへに雨明かりふる
五月雨の寒くふる日は火を入れて部屋あたゝかく寝ねてこもれり

  秋小情

このあしたさ霧はふかし庭松の葉がひにたまる露のともしさ
摘みのこす桑の末葉
(うらは)に吹きなびく寒けき風の色をこそ見れ
あたゝかき秋の日ざしに栗の毬
(いが)ゑみて實をこぼす庭土のうへに
くきやかに明けしらみゆく山の色朝ふく風はつめたくなれり
歩みきてふとしも匂え山の手の日の照る坂の木犀
(もくせい)の花

  冬至前後

あたゝかく冬日の下に照らされて萱の小家の静もる垣根
冬至
(とうじ)づく日の暮れがたの岡のみち輪を光らせて人力車(じんりきしゃ)ゆく
汽車道の向うに枯れし穂芒の穂絮
(ほわた)はひかるあたゝかき日に
停車場に日暮れていそぐ馬車の笛枯野をとほくひゞき來るかな
青々と小松が梢
(うれ)をかげりゆく日の色寒く夕づきにけり
わが病またく癒えしかこの冬の寒さに入りていよいよ肥ゆる
このねぬる朝の戸明けていちじろき霜に向へばわが喉いたし
柚子
(ゆず)の湯にあたゝまりゐて微かなる眠氣をおぼゆ疲れけらしも



 大正七年(1918、43歳)

  子を伴ひつゝ

父母に手をば引かれてうれしきか此の子は足をあげつゝぞゆく
いはけなきものにもあるかたんぽぽは花蓋
(はながさ)たかく道べに咲きて
建ていそぐ家にかあらん青麥の畠中にして石を切りをり
雑司
(ぞうし)ヶ谷(や)野を遠くきて人の家の高槻(つき)が枝(え)をめづらしみ見る
國をいでゝ幾とせならん根芹つむうなゐを見れば國しこひしも

  初夏郊外

大塚の町の裏手の穂麥畠穂をかたむけてわたる風かも
聞きなれて汽車の音にもおどろかずのどかに寝たる牛にもあるかな
汽車道の土手の草より舞いいでゝひるがへり飛ぶ白き蝶はも
雨氣
(あめけ)づく曇りの下に午(ひる)さると王子の笛はみな鳴りにけり
あそぶ子の丈より伸びて穂に出づる麥風のなかの白芥子の花 
(養育院裏)

 夏衣

いのちありて今年わが着る夏衣すゞしき風をよろこびにけり
晝たけてやゝ明かりゆく空の色けながき梅雨の晴るゝなるらし
あかしやのともしき花に吹きかよふ風ありて日の曇りたるかも
朝疾くも井の邊に人の濯ぎする水の音より眼ざめけるかも
生きてする悲しさならん朝床に眼ざめて思ふことの一事
人の世の朝あけくればおのづから覺むる眠りのあはれなるかな
この夕べ梅雨のあがりの雲の色くれなゐうすく散らばりにけり

  野分

何をかも夢みてさめし眼(まか)かひに熱き涙はたまりてゐたり
床のうへに獨り眼ざめて夜をふかく思ひつめしは何の事ぞも
野分だつ晝の河原の石にゐてあわたゞしくも鳴く鴉あり
起きいでゝ戸の間ゆ見れば月の夜の空は白けて嵐だちたり
長月のある日の朝の庭土に青松の葉をおとす風かも


 大正八年(1919、44歳)

  轉居
 六月二十九日、十年の我がこゝろをおきたる三軒町の家を去るとて、
戸のひまゆ朝日さしきたる今日のみと思ふこの家にいまだ寝ねつゝ
身にしみて今われは見たりこの朝の日の色ふかき庭の栂
(つが)の樹
かへり來る時しもなしやこの庭の一樹の栂を見るこゝろかも
たゞ我をたのむこゝろのひとすぢに過ぎ來し世とし思ほゆるかも
この栂の一樹にかけて吾がしつる嘆きも悔もすぎぬと思ふ
田端の日むきの家をおもひつゝこの家にいまは居ぬこゝろかも
いさぎよく立ちてをゆかん十年の後のいのちをたのめつゝゆかん
 
 詠いこまれた花   やまざくら(ヤマザクラ)、さくら・櫻(サクラソメイヨシノかもしれない)、山吹(ヤマブキ)、麥(ムギ)、丁子(ジンチョウゲ)、桐(キリただし記述内容からすればアオギリかもしれない)、栂(ツガ)、連翹(レンギョウ)、福寿草(フクジュソウ)、蕗(フキ)、赤城つゝじ(ツツジの一種アカヤシオ)、檜(ヒノキ)、くぬぎ(クヌギ)、松(アカマツ)、榛(ハンノキ)、桑(マグワ)、栗(クリ)、木犀(キンモクセイ)、芒(ススキ)、柚子(ユズ)、たんぽぽ(タンポポ)、槻(ケヤキ)、芹(セリ)、白芥子(ケシ)、あかしや(ハリエンジュ) 
 集中に見える若干の地名などについて: 
  ○ 茗荷谷 川の名としての茗荷谷、町の名としての小日向茗荷谷町乃至茗荷谷町。
○ 汽車道 この「汽車道」の正体は、小生よく分らないところがある。
   「汽車」は、蒸気機関車やそれに引かれる列車・貨車などであろうが、附近の大塚駅を通る山手線は、明治42年には電化されていた
(下の停車場の註を見よ)。一方、「聞きなれて汽車の音にもおどろか」ない牛を詠った歌もある。さて考えれば、電化はされたものの、一部の貨物列車などに汽車が運行されていたものか。小生、戦後早い頃にそのような例をしばしば見たことがある。ただし大塚周辺ではないが。
   「汽車道」は、汽車が通る道、つまり線路道の意であろう。
但しその場合、「汽車」について上に記したような問題があるが。 あるいは、汽車が走っていた頃の山手線についての称謂の残像であろうか。
   いずれにせよ、JR山手線 大塚駅近辺の、線路の土手を思い浮かべるべきか
(今はそんなものはないが・・・)
○ 停車場 今日のJR山手線大塚駅であろう。
   山手線の池袋-田端間は、明治36
(1903)年4月1日開業。池袋-大塚-巣鴨-田端と停車し、池袋・大塚・巣鴨の駅はこの日開業した。のち、明治42(1909)年12月16日電化、明治43年(1910)11月15日駒込駅開業。
○ 養育院  明治5年
(1872)、東京府が本郷の加賀前田藩邸内(現東京大学)の空長屋に設けた救貧施設、窮民乞食等約240人を収容した。その後諸所を転々とし、明治23年東京市養育院となり、明治29年本所長岡町から大塚辻町(現文京区大塚4丁目、大塚公園・東京都監察医務院附近)に新築移転した。のち大正12年、関東大震災で板橋に移転した。 



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